大判例

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大阪高等裁判所 昭和59年(う)1104号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣旨は、弁護人田村博志及び被告人各作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これらを引用する。

弁護人の控訴趣意第一点及び被告人の控訴趣意中訴訟手続の法令違反の主張について

弁護人の論旨は、原判決は、被告人が捜査手続の違法性を主張したのに対し、警察官が「被告人の確実な承諾をえないで被告人方居宅に入り込んだ疑いは否定し切れない」としつつ、その後の任意同行、尿の任意提出、さらに供述調書の作成に至る過程につき、「被告人は任意に警察署内に留まつて、任意に取調等に応じていたものと認めるのが相当である」とし、これらの任意捜査によつて作成現出した証拠の証拠能力に欠けるところはないとしているが、原判決の認定した任意同行及び任意取調べの経過の事実自体に誤りがあるうえ、一連の捜査手続は、違法な身体拘束状態を利用して行われた違法な証拠収集手続であつて、その違法の程度は憲法及び刑訴法の定める令状主義の精神を没却せしめるような重大なものであり、したがつて、原判決が違法に収集された被告人の自白調書をはじめその他の補強証拠について証拠能力を認めたのは、憲法三一条、刑訴法三一九条に違反しており、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続に関する法令の解釈適用の誤りがあるというのであり、被告人の論旨も同様に捜査手続の違法を主張するのである。

そこで、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて、つぎのとおり判断する。

一被告人宅への立入りについて

原審及び当審証人小出雅康、当審証人中嶋忠彦の各証言によると、生駒警察署防犯係巡査部長小出雅康は、覚せい剤事犯の前科がある被告人につき、その知人である複数の協力者から同人が再び覚せい剤を使用している旨の情報を得、うち一名について供述調書を作成したが、防犯係長巡査部長中嶋忠彦の指示により、中嶋、小出及び防犯係巡査内浦俊雄の三名が被告人に任意同行を求めて取調べるべく、いずれも私服で昭和五九年四月一一日午前九時三〇分ころ被告人方居宅に赴き、中嶋が被告人方門柱のインターホンを使用することなく、門扉を押したらすぐに開いたので、三名で玄関先に行き、中嶋が小出とともに「吉川さん、警察の者です」と一、二回呼びかけたが返事がなかつたため、玄関の引戸を引いたところ開いたので、半開きにしたまま再び小出とともに前同様一、二回呼びかけたのに対し、屋内から「オーイ」または「オオウ」というような返事があり、中嶋がさらに「生駒署の者ですが、一寸尋ねたいことがあるので、上がつてもよろしいか」と声をかけたところ、「オオウ」というような返事があつたので、三名は屋内に上がつて声のした方に行き、被告人の寝ていた奥八帖の間に入つた、というのである。

これに対し、被告人は、玄関引戸の鍵はかけていなかつたが、門扉は掛け金をかけてネジで留めてあり、そのネジは外から手を回せば開けられると述べているのであつて、被告人宅が部落から離れた一軒家であることを考えると、中嶋の述べるように、押したら門扉が開いたというのにはいささか疑いが残るけれども、その点は暫く措くとしても、被告人は原審第一回公判において、「警察官が私の家に勝手に入つて来た」と陳述し、同第二回公判においても、「オーイ」というような返事をしたことはないと述べ、当審においても、玄関での呼びかけを聞いたことはなく、「オーイ」の返事もしていないと供述するのであり、本件捜査の経過に関し当審で取調べた小出雅康作成の当日第三回目の被告人の供述調書で、被告人が「警察官が勝手に家に入つて来たことが気に入らん」と述べて署名押印を拒否していること等にかんがみると、被告人が右のような返事をしたかどうかは疑わしく、中嶋らは返事があつたから声のする奥八帖の間に行けたと供述するけれども、小出は前日被告人宅の下見をしており、被告人の知人から情報を得ていたこと、さらに被告人宅の構造等からみて、それは直ちに返事があつたことを裏付けるものとは解し難く、仮に返事があつたのであれば、被告人の在宅の事実が明らかなのであるから、もつと慎重な措置を講ずべきであり、いずれにしても、警察官三名が被告人宅に立入るについて、被告人の明確な承諾を得たとは認め難い。

二任意同行について

前示小出、中嶋の各証言によると、被告人は奥八帖の間のベットで目を閉じて横になつていたが、三名が枕許に立ち、中嶋が「吉川さん」と声をかけて被告人の左肩を軽く一、二度叩くと目を開けたので、被告人に警察手帳を示し、「生駒署の者やけど、覚せい剤のことで聞きたいから一緒に来てくれ」と言つたところ、被告人は無言であつたが、内浦が「おれ知つとるやろ」と言つたのにうなずいたので、重ねて同行を求めたところ、被告人は「一時半に大阪へ行く用事があるので一緒に行きます」と答え、ベッドから起き上がつて着替えを始めたが、中嶋ら三名はその場で着替えるのを見届けて玄関先で待ち、被告人が玄関に施錠をしてから、門の近くに駐めていたライトバンのドアを小出が開けて被告人を運転席後方の席に座らせ、自分はその左横に座り、助手席には中嶋が座り、内浦が運転して午前九時四〇分ころ出発し、午前九時五〇分ころ生駒警察署に着いた、というのである。

これに対し、被告人は、原審において、ベッドのところで警察手帳は示されておらず、金融屋が来たと思つて付いて出たが、自動車のところで薄々警察官でないかと思つた旨供述し、当審においても、警察手帳を示されたことはなく、三名のうち誰かが「おれを知らんか」と言うたが、見覚えがなかつたので「知らん」と答えると、誰かが「一寸話があるから来てくれ」と言うので、誰だと尋ねても返事がないから、金融屋か取立屋だろうと思い、着替えをする時「わしも大阪に行く用事があるから一緒に行こう」と言つたが、自動車に乗つてから警察官ではないかと考えたけれども、反抗しても相手が三人だから、警察でもいいわと思つて同行したと供述しているのである。

右のように、警察官の証言と被告人の供述が鋭く対立しており、前示の立入り行為との関連において考えるならば、被告人の右の一貫した供述を一概に虚偽のものとして排斥し去るわけにもゆかず、被告人が右のように「一緒に行こう」と言つたのも、金融屋に対するものとしても理解できないではない。

任意同行は、刑訴法一九八条一項により被疑者に求めることができる任意出頭の一態様と考えてよく、真に任意の承諾のもとに行われる限り違法ではないが、犯罪捜査規範一〇二条は、「任意出頭を求めるには、出頭すべき日時、場所、用件その他必要な事項を明らかにし……なければならない」と規定しているのであつて、中嶋らは同行先と用件を告げたと証言するけれども、被告人が金融屋の取立てであろうと認識しているような状態では、被告人において「一緒に行こう」と述べたとしても、また被告人を同行するについて強制力を行使していないからといつて、本件の任意同行が被告人の真に任意の承諾のもとに行われたと認めるには合理的な疑いがあり、この疑いが払拭されない以上、違法な任意同行といわねばならない。

三逮捕状による逮捕にいたるまでの経緯

この点については、関係証拠を総合すると、つぎの事実が認められる。すなわち、(一)被告人は、同日午前一〇時前頃から逮捕状によつて逮捕された午後五時すぎまでの間約七時間にわたり、生駒警察署二階防犯係室内の補導室で小出から事情聴取ないし取調べを受けた。(二)被告人は、同日午前一一時頃になつて本件覚せい剤使用の事実を認め、小出の求めにより午前一一時半頃に採尿して提出した後、腕の注射痕を見せた。(三)小出は、逮捕状による逮捕前に被告人の供述調書二通を作成した。(四)被告人は、警察に着いてから右採尿の前後少なくとも二回にわたり、小出に対し、持参の受験票を示すなどして、同日午後一時半までに大阪市鶴見区のタクシー近代化センターに行つてタクシー乗務員になるための地理試験を受けることになつている旨を申し出た。(五)これに対し、小出は、一回は返事をせず、とくに尿提出後の申し出に対しては、「尿検の結果が出るまでおつたらどうや」と言つて応じなかつたが、被告人が当日受験しないと再び講習を受けねばならないことを了知していた。(六)同日午後二時半頃、尿の鑑定結果について電話回答があつた後、逮捕状請求手続がとられ、その発布を得て、小出が同日午後五時二分被告人を逮捕した。

以上の事実関係にもとづいて考察するのに、小出は、「被告人が大阪に行きたいと言えば、行かせます」とか、「とくに帰らしてくれという求めがなかつた」とか証言しているが、右の地理試験を受けることになつている旨の被告人の申し出は、まさしく退去の承認を求める意思の表明にほかならず、これに対し、小出が返事をせず、または「尿検の結果が出るまでおつたらどうや」と答えたのは、尿の検査結果が判明するまではということで、被告人の退去を阻んだものと認めざるをえない。小出は、警察署の建物の構造からみて、便所への行き帰りに自由に退去できるかのような証言をしているが、右の採尿時には二名の警察官が同行しているし、また被告人が当審で供述するように、他の排尿時にも警察官一名が同行したというのであるから、右の小出証言は実際的でない。そして、被告人に対して強制にわたる行為や威圧感を与えるような言動がなく、被告人が素直に取調べに応じていたとしても、前示のように、被告人の退去を阻んだ一事が存する以上、逮捕状による逮捕にいたるまで被告人を補導室に留め置いたのは、任意の取調べの域を超えた違法な身体拘束であつたといわねばならない。

四逮捕前に収集された証拠の証拠能力

右のように、本件においては、警察官三名による被告人方への立入りは被告人の明確な承諾を得たものとは認め難く、任意同行は違法であり、逮捕にいたるまで被告人を警察署に留め置いたのは違法な身体拘束であると判断せざるを得ないところ、原判決が被告人の有罪認定の証拠として挙示するもののうち、「警察技術吏員本多定男作成の鑑定書」は、被告人の逮捕前に提出、押収された尿に関するものであるが、違法な身体拘束中になされた尿の提出、押収手続は、被告人の任意提出書や尿検査についての同意書があるからといつて、それが適法となるものではなく、その尿についての鑑定書の証拠能力は否定されるべきであり、原審で弁護人がこれを証拠とすることに同意して証拠調べを経ているからといつて、証拠能力を有することにはならない。したがつて、原審が右の鑑定書を証拠に採用して被告人の有罪認定の資料に供したのは、証拠調手続に関する訴訟手続の法令違反であり、原判決挙示の証拠中には、被告人が覚せい剤を注射した旨の自白を補強すべき証拠はないことになるから、右の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかであつて、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて、量刑不当の控訴趣旨に対して判断することなく、刑訴法三九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従いつぎのとおり自判する。

本件公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和五九年四月六日午前六時ころ、奈良県生駒市萩原町四九五番地の自宅において、フェニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤粉末約0.05グラム(耳かき約二杯)を水に溶かし、自己の左腕部に注射して使用したものである」というにあるが、被告人の自白を補強する証拠がなく、結局犯罪の証明がないことに帰するので、刑訴法三三六条により被告人に無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(兒島武雄 谷口敬一 中川隆司)

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